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千年以上に亘り、この日本橋室町の地を見守り続け、
食物をあらわす「うか」と、生命力をあらわす「みたま」という
生きるために大切な二つの元を名に持つ神、
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)「宇迦之御魂神」を
祀る稲荷神社として、広く信仰されています。
どなたでも参拝できます。 |
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倉稲魂命(うかのみたまのみこと) |
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5月9日 |
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当神社の創祀された時は明らかではないが、当社に伝わった略記によると貞観年間(清和天皇・AD八五九年〜八七七年)に既に鎮座していたようである。当社は武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社名とした。その鎮座する社地は広く神殿も亦宏壮にして社頭の四隣は森林、或いは田畑にて囲まれ、農家が散在している全くの片田舎である。土地の人は神社の森を稲成の森と呼び、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を稲成の一里塚と言っていた。後に明暦三酉年(一六五四年)正月八日の大地震により崩壊し、碑石が散乱したのを時の人々が残存した破片を集め、保存を計ったと伝えられる。今、その碑銘の写しをここに掲げてみると、
表 宮戸川の辺り宇賀の池上に立てる
一里塚より此福徳村稲成森塚迄一里
裏 貞観元年卯年三つき吉祥日
とあってそこに、そもそも当社は元来武将の信仰厚く源義家朝臣が深く崇敬されていたことを記したと伝わっている。
江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃など保存した。徳川家康公入府し、天正十八年(一五九〇年)八月に始めて参詣しその後参詣は数度に及び、更に二代将軍秀忠公は慶長十九年(一六一四年)正月八日に参詣し、福徳とは大変目出度い社号であると称賛し、昔からの椚(くぬぎ)の皮つき鳥居に春の若芽が萌出でるをご覧になり、神社の又の名を芽吹神社とつけられた。元和五年(一六二〇年)二月に御城内に奉齋の弁天宮を当社に合祭されるに当り、将軍自ら神璽を納められた。明治七年八月に社格を村社と定められ、同九年九月社号を福徳神社と官准された。 |
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